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伝説の軍人 岩本徹三 [伝説の軍人]


岩本 徹三(いわもと てつぞう)
太平洋戦争(大東亜戦争)時の日米パイロットの中で唯一撃墜数200機超えのエース・パイロット
日中戦争から終戦まで最前線で戦い続けた。最強の零戦パイロット

初陣は昭和13年2月25日
24日の夕刻に中国(当時の支那)南昌(なんしょう)空襲の命が下った。
胸はおどり、身体じゅうの血が湧き立ち、武者ぶるいと不安が交差する。
冷静沈着に行動しなければと、いましめる。
2月25日
凍った夜明け前の空気に戦闘機の爆音が突き破る
午前4時  出撃以外の残留員は整備員の手伝い
午前7時  指揮所前に攻撃搭乗員の整列
午前10時 中攻隊(爆撃機)と岩本徹三がいる戦闘機隊と合流

中攻とは、日本海軍の打撃的攻撃力の主力を担い、
       爆撃、魚雷攻撃、索敵、哨戒(見張り)、輸送など万能機として活躍した機体

天候は晴れ、高度五千mに雲あり。
陣形は中攻隊を基本に岩本徹三がいる第一中隊が右側、第二中隊は左側
南昌飛行場上空に近付き敵陣地からの高射砲からの炸裂する弾幕が行く手を拒む。
その弾幕の中を堂々進撃する中攻隊の威勢のあるりっぱな姿に岩本徹三は見とれていた。
ふと後ろを見るとすでに第二中隊は敵味方入り乱れての空戦を展開中
岩本徹三がいる第一中隊二小隊三番機でいちばん後方、後上方からの攻撃は岩本が真っ先に狙われる。
慎重に上方の雲を警戒する。その時雲の中に・・・・!
        敵機だ!!!
爆撃の終わった中攻隊先頭機に、雲中から襲い、一機また一機と・・・・・・
その瞬間、第一中隊一小隊指揮官:田熊大尉はスロットル全開で敵機に突撃
雲の中から出るわ出るわの、その数約15機
岩本徹三も、ただちに上昇し雲中に突入し
今まさに降下姿勢にある敵機に距離50mに迫って引き金を引く。
敵機は、胴体から白煙を吐いて墜落していった。
      初撃墜!!!!!!
初撃墜でさすがに、体中の血が踊る・・・・が
高度4千m周りを見ても友軍機がいない・・・・・・・・・・
その時ふと後方を見ると今まさに射撃姿勢に入ろうとする敵機が
      しまった!!!
岩本徹三の操る九六式艦上戦闘機(133号機)を急反転、危うく落とされるところであった。
”見張りを厳重に、戦況をよく見て攻撃をやれ”と先輩の教訓が頭によぎる。
後上方を見張っていると突然、翼下(よくか)を同航で飛ぶ敵機を確認
      しめた!!!
ただちに切り返し、後上方を追尾し、乱射乱撃の不利を思い、さらに接近
”撃つ前に必ず後方を見よ”と言う教訓も思いだし、後方確認。敵機の姿なし。
この時あまりにも冷静過ぎて岩本徹三自身驚いている。
引き金を引く、敵機は急上昇その瞬間機体は一回転して
そのまま回転しながら失速状態で降下、墜落。   撃墜2機目
現在の高度4千m
同高度にまたも敵機も友軍機もいない・・・
どうやら大半が下方にいるらしい。右下方を見張っていると
友軍機が敵機三機に反復攻撃されている、一刻の猶予もならない。
たったいま、友軍機に一撃を加えて上昇してきた敵機がいる。
敵機は頂点で背面になり、再び友軍機に攻撃を加えようとするその瞬間を、補足し一撃加えた。
この間約二秒。
急上昇しながら敵機を見る。
背面のまま発動機(エンジン)付近から火を吹き、火炎の尾を引きながら落ちて行く。
撃墜三機目
と言いたいが、地上付近で見失って確認できず。
初陣ながら二機確実撃墜で気持も落ち着くき、上下左右の見張りにも余裕がある。
敵機を求め、やや高度を下げた、すると
同高度真正面から、こちらに向かって突進してくる敵機がいる
たちまち接近、射撃する間もなく、翼すれすれにすれ違った。
岩本徹三はただちに反転、敵も逃げない。
有利な態勢につく為に上昇反転を繰り返し、ついに岩本徹三が照準器に敵機を補足
引き金を引く・・・少しあせり気味のせいか、乱射に終わって敵機は落ちない。
敵は戦いを避け、急激に高度を下げる、岩本徹三も逃がすものかと追う。
敵機は飛行場に逃げ込むつもりらしい。
      逃がすものか!!!!!
追撃・追撃・追撃、敵味方とも地上に向かって突っ込んでゆく
高度二千m付近で、敵機が急に機首を下げた・・・そのまま落下し
飛行場近くの畑に突入・・・・   撃墜四機目
しかし、今の一機に時間をかけすぎ、高度は下がり不利な態勢に・・・
上空を見る
敵機が数十機が乱舞している。
その中の一機が高度を下げ、着陸しようとしている。
岩本徹三の機体は上昇し高度をとらなければ危険な態勢ではあったが、敵機をおとすのみ。
低速状態の敵機に対する優速の空戦、格段の有利な条件での戦闘だが、高度わずか200m
一つ間違えば岩本徹三自身も地上に激突の可能性もある。
岩本徹三は敵機を照準器に補足し、射撃を加える。
不意を突かれた敵機は驚いて急反転
しかし、この高度での反転は不可能である。
飛行場の端に激突、これが戦闘機乗りの運命なのである。  撃墜五機目
前後左右に飛び交う高射砲弾に驚き我に帰る。高度は100m
高射砲はここぞとばかりに撃ちまくってくる。
後ろを見る。
敵機六機が追尾してくる。敵の高度約500m距離は約600m
     絶体絶命!
岩本徹三、スロットル全開・高度は20m地上すれすれである。
地上は、目の回るような速さで吹っ飛んで行く
( 九六式艦上戦闘機の最高速度は 460km/h )
岩本徹三は、狭い座席で頭を下げ体を出来る限り縮める。
敵機の距離は依然600m敵も補足困難を感じ600m離れたまま射撃・・・当たらない。
日本の占領地域に近ずくにつれ、敵機は一機また一機と反転そして敵機の姿が消えた。
ホッとして時計を見る、戦闘開始から40分が経過していた。
その間、発動機(エンジン)はほとんど全開である。
発動機と機付き整備員の徹夜の整備に心の中で手を合わせる。




ウイキとか1行や2行で支那事変の事を終わらせている。
よかったら本を読んでみてください。
当時の生の声を読むのもいいものと思います。

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伝説の軍人 シモ・ヘイヘ(シモ・ハユハ) [伝説の軍人]


1939年から1940年にかけて起こった
冬戦争(フィンランドソヴィエト連邦(現ロシア)の間で起こった戦争)
で故郷の町に近いコラー河付近での防衛任務に就いた。

特に有名なのが冬戦争中のコッラーの戦いにおける丘陵地を巡る戦闘(殺戮の丘)
シモ・ヘイヘを含むフィンランド軍わずか32名が迎え撃った相手は4000人のソビエト連邦軍
フィンランド軍は終戦までコッラー河付近の領土を守り抜き、
この戦果は後に“コッラーの奇跡”と呼ばれた。
公認の記録
505名のソ連兵を殺害
(未確認戦果が多数あり合計800人以上を狙撃で殺害していると推定も・・・・)
ちなみに505名でも世界最多記録
(狙撃銃以外の火器による殺害数は含まれていない)

シモ・ヘイヘはサブマシンガンの名手でもあり、“殺戮の丘”の戦闘ではサブマシンガンを用いて
記録では200人以上、非公式なものを含めれば狙撃で殺害した505人よりも多くの敵兵士を倒したと。。。。
これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間のうちに残されており
1939年のクリスマス直前の12月21日だけでも25人のソ連兵を殺害
クリスマスの夜には通算殺害数が138人に達していた。


シモ・ヘイヘが凄いのは単に世界最多記録だけではない、他の理由も。

シモ・ヘイヘの伝説を語る上で欠かせないのが
愛用の武器モシン・ナガンM28である(ソヴィエトでは旧式になりつつあった武器)
モシン・ナガンには3.5倍から4倍の倍率を持ったスコープが装着できたが、
ヘイヘはこれを使用せず銃身に付いた鉄製の照星と照門のみを以って狙撃を行った。
猟師時代からの射撃姿勢への慣れと装備の軽量化
レンズによる光の反射で自らの位置を悟られるのを嫌ったからである。
(狙撃体勢を取る際、スコープを装着すると通常より頭を上げる必要がある)
当時、既にスナイパーはスコープの使用が当たり前になっていた中で、スコープを使用せずに、
敵よりも性能の劣る銃で多くの敵を倒したヘイヘの名声はさらに高まった。

シモ・ヘイヘの射撃の精度は
300m以内ならほぼ確実にヘッド・ショット(標的の頭部を狙う狙撃)したと言われる
さらに射撃の速射性も素晴しく
ある狙撃訓練課程でいとも簡単そうに1分間に150mの距離から16発の射的に成功したという逸話である。
(モシン・ナガンはボルトアクションライフルであり、装弾数も5+1のため、最低2回のクリップ給弾も必要)
この射撃精度と速射能力とが結びついた結果
恐るべき効率を以って敵軍を蹂躙する"白い死神"が誕生したのである。

1998年、晩年を迎えたヘイヘは狙撃の秘訣を問われた際に
一言「練習だ」と答えたという。
また、自らの残した記録については、
「やれと言われたことを、可能なかぎり実行したまでだ」と述べている。

終戦後、ヘイヘは兵長から少尉へ5階級特進

この動画1回では読み切れないと思いますが
いいものなのでぜひ見てください。(シモ・ハユハは戦記2で少し登場します)

よければ全画面で見てください。このままだと
字が読みにくい所が出てきますので、全画面をおススメします。

フィンランド戦記1 ”雪中の奇跡”




フィンランド戦記2 ”氷上の死闘”




フィンランド戦記3 ”大戦の狭間”




フィンランド戦記4 ”スオミの未来”




諸事情で ”スオミの未来” 見れないのですが、この最終章が
1番肝心なのでどこか探して見てください。
1・2・3と面白いと思ったなら最終章是非とも見てください。

以前に書いた物


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伝説の軍人 舩坂 弘 [伝説の軍人]

舩坂 弘(ふなさか ひろし)は当時23歳
中隊では一番の模範兵と目されており、部下からの人望もあつかった。

剣道と銃剣道は当時から有段者であり、特に銃剣術に秀でていた
陸軍戸山学校出身の准尉からも
「お前の銃剣術は腰だけでも3段に匹敵する」と保証されるほどの腕前であった。
また、舩坂 弘は擲弾筒分隊長ではあったが、
中隊随一の名小銃手でもあり
入隊以来、すでに射撃については30数回の賞状・感状を受けていた。
「射撃徽章と銃剣術徽章の2つを同時に授けられたのは後にも先にも舩坂だけだ」と名を馳(は)せた。

アンガウルの戦い
第二次世界大戦におけるパラオ - マリアナ戦役最後の戦い
この戦いで多大な戦果を上げることになる。
1944年9月17日
擲弾筒および臼砲にて(簡単に言うと迫撃砲で)米兵を200人以上殺傷
米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置
ようやく頼みの軍医がやって来るも、傷口を一目見るなり
自決用の手榴弾を手渡して去ってしまった。。。

しかし、瀕死の重傷を負いながらも足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血
夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復
その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも
不思議と翌日には回復しているのが常であった。
これについて舩坂 弘は
「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と、後に語っている。

舩坂は絶望的な戦況にあってなお
拳銃の3連射で3人の米兵を倒し
米兵から鹵獲した短機関銃で3人を一度に斃し
左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し
短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺して殺すなど
実際、舩坂 弘の姿を見た部隊員たちからは
鬼の分隊長・不死身の分隊長と形容する声が聞かれるほど
まさに鬼神の如く奮戦を続けていた。。。

しかし、食料も水もない戦場での戦いは
日本兵を徐々に追い詰めていき、
洞窟の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で生地獄の様相を醸し出していた。
船坂 弘自身も腹部盲貫銃創の重傷を負って這うことしか出来なくなり
その傷口から蛆虫が涌くのを見るにつけ
蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意。

しかし、

思いに反して手榴弾は不発。
船坂 弘は茫然とし、自決未遂という現実に、
なぜ死ねないのか、まだ死なせて貰えないのかと、深い絶望感を味わったという。。。

戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び
舩坂 弘は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意。。。

(ちなみに、腹部の蛆虫は拳銃弾の火薬を患部に流し込むことで撃退。
  しかし、この時あまりの激痛に意識を失い、半日ほど死線をさまよう。。。)

手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破
4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入
この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり
致命傷は
左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所
さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。
長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロ
さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって
さながら亡霊のようであったという。。。

舩坂 弘は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。
当時、米軍指揮所周辺には
歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており
舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。
舩坂 弘はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見て
右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。
突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかったという。

米軍の動揺を尻目に弘は司令部目掛け渾身の力で突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間
頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。
駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。
このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら
米兵の観衆に向かって
「これが日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている




→→↓
   ↓
   ↓
←←↓









舩坂 弘は3日後米軍野戦病院で蘇生する。
当初、舩坂 弘は情をかけられたと勘違い
周囲の医療器具を叩き壊し、急いで駆けつけたMP
そのMPの銃口に自分の身体を押し付けて
「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。
この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説に
舩坂 弘の無謀な計画に恐れをなしながらも、大半はその勇気を称え
「勇敢なる兵士」の名を贈ったという。
元アンガウル島米軍兵であった
マサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは
戦後舩坂宛ての手紙の中で
「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。
あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っている。

彼の伝説はまだつづく・・・・




その後、数日の捕虜訊問を経て、ペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。
このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており
米軍側は
特に“グンソー・フクダ(舩坂は所属が判らぬよう福田という偽名を使っていた)”の言動・行動には注意しろと
要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。
しかし孚虜となっても船坂 弘の闘志は衰えず、ペリリューに身柄を移されて2日目には
瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。

ペリリュー島における日本軍最後の拠点”大山”が占領される直前
突然、米軍の火薬庫が大爆発を起こし、次々に何棟かへ爆発が移った。
犯人が判明しないまま迷宮入り・・・・・
もちろん
犯人は船坂弘

船坂弘は収容所から抜け出した後
1000メートルを潜んで行って日本兵の遺体に辿りつき弾丸入れから小銃弾を六七発集めて火薬を抜き、
それを導火線にしてマッチで点火し米軍弾薬庫の爆破に成功。。。
ちなみにマッチは
ペリリュー島へ送られる船中、収容所までのジープの中で一本ずつ入手・・・・・

弾薬庫爆破成功後は、
船坂弘は、元来た道を辿って収容所に戻り、何食わぬ顔で翌朝の点呼に参加。
このため、大々的な捜査にも拘らず、最後まで弾薬庫が吹き飛んだ原因は判明せず
米軍記録には“原因不明の爆発”による損失としか記されてはいない。

しかし
収容所に無事帰還後に
アメリカ兵は
「犯人はグンソーではないだろうか?」と疑い船坂の顔をのぞきこんで指摘した。
船坂弘は
「私ではありませんよ・・・金網の中に閉じこめられていて、
 脱走しようとすれば、必ずあなた方に捕まえられたではありませんか・・・・」

伝説はつづく・・・・

その後、
船坂弘はペリリュー島捕虜収容所を去り、
グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に帰国。


さらに
三島自慢の愛刀、関の孫六(後代)を贈った人物が舩坂 弘その人である。


もっと知りたい人は
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